2014年08月 - 仏法研鑽塾Ⅲ

子供たちを守れ!

アメリカでは年間の子供の行方不明数が80万人もいるという。

イギリスでは20万人。日本でも1000人以上。

世界広しといえども、これだけの数の子供たちを誘拐する変質者がいるとは思えない。

おそらく、組織的な犯行だ。

臓器売買や何千年にもわたって悪魔崇拝儀式を行っている輩が存在するのは事実。

乳幼児や小さい子供を持つ親は、可愛い我が子の誘拐に気を付けて。
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DNAの記憶と魂の記憶

同じ親から生まれた兄弟姉妹にもかかわらず、性格が全く違う。

境涯の高い両親から、なぜかひとりだけ境涯の低い子供が生まれる。

境涯の低い親から、ひとりだけ境涯の高い子供が生まれる。

レベルの高い仏法者なら、一度は疑問に感じたことがあると思います。

家族の一員でありながら、他の人と一緒に暮らしていることに違和感やストレスを感じている。

DNAや宿業については、間違いなく両親からの引継ぎです。

にもかかわらず、性格や価値観、興味を示す対象などが、同じ家族の一員でありながら、他の人とは全く異なります。

成長するにしたがってこの違いは顕著になっていくようです。

なぜこの様な現象が起こるのでしょうか。

それは、各人の体に宿っている魂の質が違うからです。

以前の記事にも書きましたが、体(車)を動かしているのは魂(ドライバー)です。

両親から引き継いだDNAは、肉体の設計図です。

そして宿業とは、その人の運命に影響を与えている記憶で、正体は電気信号です。

これらを今回の人生でどのように活用して価値創造していくかを決めているのが、魂なのです。

魂というものは、受精した瞬間に外部空間からやってきて母体に飛び込みます。

つまり、体や宿業は両親から受け継いでいても、ドライバーである魂は別物なのです。

しかも、魂自体も過去世における記憶を、電気信号の形で持っています。

これらの要素が渾然一体となって、今世におけるその人の人物像になっているわけです。

だから、同じ両親から生まれた子供でも性格や生命の基本境涯が違ってくるのは、当然なのです。

境涯の低い親から生まれ出た境涯の高い子供は、親の宿業をよりよい方向に転換していく傾向があるように思えます。

境涯の低い親は、境涯の高い子供に救われるというわけです。

逆に、境涯の高い親から生まれた境涯の低い子供は、自分の親に違和感を感じていることでしょう。

なかには親の教育効果で多少は境涯が高くなることもありますが、大抵の場合、悪の道に入り込み、親に苦しみを与えてしまう人生を歩みます。

特に、基本境涯が最低級の子供の場合、優秀な親から、生涯何も学びません。

一般的には、血のつながりほど密接な関係はないと信じられているようです。

しかし、仏法の視点からすれば、血のつながりなど、重要視するほどの関係ではないのがわかります。

















アイヒマン

ナチスドイツが行った「ユダヤ人問題の最終解決」と呼ばれるヨーロッパのユダヤ人絶滅計画。

ゲシュタポのユダヤ人課の課長アイヒマンは、各国のユダヤ人をヨーロッパ東部に散在する強制収容所へ列車輸送する最高責任者だった。

2年間に500万人ものユダヤ人を列車で運ぶ任務を遂行した。

終戦後は偽名で入手した渡航証でアルゼンチンに逃亡。
その後16年にわたって様々な仕事につき、家族を呼び寄せて新生活を送っていた。

当時のアルゼンチンは親ナチスのファン・ペロン政権下、元ナチス党員の隠れ家となっていた背景がある。

しかし、アイヒマンがアルゼンチンに逃亡している事実をつかんだイスラエル諜報特務局の秘密工作チームによって拉致、イスラエルへ連れ去られた。

アイヒマンの裁判は1961年4月にイスラエルの首都・エルサレムで始まった。
「人間性に対する犯罪」、「ユダヤ人に対する犯罪」、「違法組織に所属していた犯罪」など15の容疑で起訴され死刑判決。
刑は1962年6月1日未明にラムラ刑務所で執行された。

裁判中、アイヒマンはナチスドイツによるユダヤ人迫害について「大変遺憾に思う」と所感を述べた。
しかし、自身の行為については、
「私はただ上官の命令に従っただけ」と終始した。

この歴史的事実には重要な教訓が含まれている。

人は権力を持つ相手には、その言葉に疑問を抱くこともなく、素直に従ってしまう性質があるという。

普段は平凡な一市民であっても、権力者から命令を受けると、たとえそれが不合理なものであろうとも、いとも簡単に服従してしまう。

そこには家庭教育で培われてきたはずの道徳、宗教、地域社会で身に付けてきた常識的な判断能力さえも、その服従を拒絶する効力にはなっていない。

個人が信じている道徳的な価値などが、実際の行動において全く機能しなかったという脅威の事実。

このテーマにおいては多くの心理学者が実験、検証結果を発表している。

皆がしている違法行為、特に権力者がしているそれには、同調行為が起こりやすい。
自分の価値観や罪の意識、良心の呵責などにより自ら判断するというよりも、社会的地位の高い人の影響を受けやすい。

特に日本人は権威に弱い国民性を持っている。

その土壌に集団心理が加わると、集団によって個人の自由思考や発言、行動が抑圧されていく。

結果的に、権力側が自ら手にしている権威を維持するのに都合の良い状況が更新されてゆく。

罪の重さや事件性、次元の違いがあるとしても、類似したことは今後も発生するだろう。

毎日、何千人ものユダヤ人をガス室に送り込んだアイヒマン。
アイヒマンを良く知る人物は「普通にどこにでもいる平凡な男」と彼を評した。

平凡な人というものは、その与えられた状況によっては、それまで自分が為し得るとも思えなかった残虐な事を、一時躊躇はするのだろうが、結局行ってしまう悪の性質を内蔵している。

それゆえに、その性質を矯正する正しい教育が必要だ。

自分自身が賢明になり強くなるための訓練を受ける必要が生じてくる。
その成果を行動で示せる強い人格養成トレーニングが必修科目になってくる。
ありきたりな道徳教育だけでは不十分。
そうしないと生命尊重の思想を具現化することなど決してできない。

物事を正しく判断するために一番重要なのは、まず第一に真実を自分で正しく認識すること。
その上で自ら考えて判断を下すこと。

どのような国、組織に属していても、権威に振り回されることなく、自分で考えて判断し行動できる自律した民衆に成長していくことが、「万人が幸福になる世界」実現への近道なのだ。

人間主義(パートⅡから)

仏法は人間主義を説いています。
この世に人の生命ほど尊いものはないという思想です。

当然、大量殺戮を繰り返してきた二十世紀の指導者やそれを許してきた民衆に対する自戒の意味も含んでいます。

しかし、一般的に思想というものは、その一部だけが切り取られて本来の意味を捻じ曲げられて解釈される場合が多々あります。

人間主義思想も例外ではありません。
邪悪な心を持つ輩に利用されやすい要素も持っているわけです。

例えば、低次元の政争の具に利用される。
あるいは、こっそり私腹を肥やすための隠れ蓑にされるなど、人の思考によって作り出された産物は、例外なくそういう性質を持っているものです。

そこで今回は仏法で説く「人間主義思想」を少し掘り下げて考察してみました。

仏法の目的は、地球人類が「生老病死」の苦しみを克服して絶対的幸福境涯で生活できるようになることです。

地球人類が一人残らず幸せになれるような世界を実現するために、偉大な仏法者によって因果律として体系づけられた方途です。

民衆の絶対的幸福境涯の実現に向けて「人の生命ほど尊いものはない」という思想が生まれたとも受け取れます。

仏法が重要視しているのは、どこまでいっても「人間の命」です。

しかし、そんな生命尊厳の思想を訴えていても油断は禁物です。

人間主義思想を、自身の低次元の欲求を満たすための道具に利用しようとする輩が出てくるからです。

経済至上主義による恵みが「人類の命」を育んできた事実。
戦争さえも国民に恩恵を与えてきたと解釈する自己正当化に都合の良い理由はいくらでもあります。

人間主義思想を利用する者は、自分が私腹を肥やす目的に適した状況を、善人の仮面を付けながら簡単に作り出してしまいます。

よく観察しなければ明るみに出ない他者の犠牲の上に自らの繁栄を築く行為も、境涯の低い人物にとって自らの人間主義に基づいた行動に過ぎません。

解釈する側の境涯によって、人間主義思想も本来意図された内容とは正反対の意味に受け取られてしまうのでしょう。

指導層にこのような人物が現われたら本末転倒です。

境涯の低い指導者の引き起こす新たな愚行を未然に防止するためには、皆が賢く進化するしかありません。



犬は人に飼いならされた故に生き残った。
ニホンオオカミは飼いならされなかった故に絶滅した。

正しい人間主義のもとに、人の生命を維持するのに都合の良い有益なものは生き残り、有害と認識されたものは排除されて消えていく。

これは自然淘汰の一部なのでしょうか。

仏法で説いている人間主義とは、自然との共生であり、荒廃、汚染された生活環境の再構築も意味していると思います。

あくまでも、地球を間借りして生活している人類の幸福を実現するための思想です。

一見すれば、人間に敵対するオオカミやウイルスなどは人間に有害な存在と思われがちです。
しかし、その性質を正しく理解してみれば、必ずしも有害とは言い切れない要素もある。

現時点ではわからなくても、研究が進めば有効利用が可能であることが後に判明する場合もあります。

肝心なのは有効活用する人間の側の知恵にあるのでしょう。

以上を踏まえたうえで、人間主義とは地球人類の生存が最優先されている思想であるということです。

2009年10月30日。

仏界への入学試験(パートⅡから)

あらゆる宗教、思想には正邪がある。

正しい宗教、思想は、地球人類全体の意識レベルを向上させて、誰もが幸福になれる社会の実現を目指す。
そして、その具体的方法を提示する。

悪い宗教、思想は、地球人類全体を不幸のどん底に突き落としてしまうシナリオを秘めていて、そのシナリオの実現を志向する。

悪い宗教、思想を持つ人は、小さな自我に異常に執着していることが多い。
自分だけでなく、自分と関係ある周囲の人の意識レベルの向上まで、妨害する言動をとる。

悪い宗教、思想を持つ人にとっては、常に自分の利益が優先される。
従って、誰もが幸福になれる社会の実現に寄与することはない。

どのような角度から観察しても、善の要素が少ない。
代わりに悪の要素が多いので、正真正銘の「悪人」といえる。

そのような人物が権力を手中に収めると、悲惨この上ない社会を作り上げる。
大多数の者を犠牲にして、自分と取り巻きだけが富を独占するからだ。

現在、人類が抱えている諸問題は、誤った宗教、思想が根底にあることによって惹起される。

正しい宗教、思想を身につけて生活している人は、健全な精神を持つ「善人」だ。

「善人」の中でも、仏法思想を持つ人を「仏法者」という。

「仏法者」には二種類の人がいる。

仏法哲学全体を正しく把握、理解していて、その思想を生活の中で実践している「本物の仏法者」。

そして、

仏法哲学の全体、あるいは一部を誤解しているにもかかわらず、自分は正しい仏法者だと信じ込んでいる「本物ではない仏法者」。

「本物ではない仏法者」は悪い宗教、思想を持つ「悪人」と比較すれば、「善人」だ。
内包している悪の要素が少なく、他者に対する悪影響も、正真正銘の「悪人」ほど強くない。

しかし、ある条件が重なると「本物ではない仏法者」は正真正銘の「悪人」に堕落していくことがある。

金銭、権力、異性などにかかわる自身の欲望が、一際、強く出てきた場合だ。

概して、「本物ではない仏法者」は自己中心的で臆病、恩知らず。

元々、修羅、畜生、餓鬼の入り混じった基本生命を持つ者が多く、条件が揃うと容易に「悪人」へと堕落してしまう傾向がある。

仏法哲学の全体、あるいは一部を誤解しているので、いくら仏道修行に励んでも、所定の成果が現れにくい。

その体たらくを見かねた「本物の仏法者」に注意、指導されたとしても、自分の誤りを素直に認めることはない。

だから、仏法に対する誤解は、生涯、続いていく。

なかには、読んだ本の内容を知識として記憶しているだけで「すでに自分は悟りを得た」などと、思い上がっている人物もいるようだ。

当然、慢心を起こした者は、遅かれ早かれ、仏法に疑問を抱くようになる。
仏道修行を止めてしまうのは時間の問題だ。

もちろん、周囲には信心強盛である素振り、あるいは、自分は「本物の仏法者」であるというイメージを巧みに作り上げていることもある。

本物かどうかを見極める目を持っている人にとって、その類の鑑定は一目瞭然。

慢心を起こしている者にとっては、相手に自分の正体がバレているなど、露ほども感じていないようだ。

他人に悪影響を与えないような場所や状況で退転しているのだったら、大問題には発展しない。

この場合は大目に見ることにしよう。

しかし、学会組織の中枢で「本物ではない仏法者」が活性化し始めると、組織を内側から食い破る。

「師子身中の虫」になる。

堕落最高幹部の悪を見抜いて排除する。
その作業は癌の摘出手術と酷似している。

放置していても障害にならない段階であれば、早急に対策を講じる必要はないだろう。

だが、放置を続けて癌が大きく成長すると、周囲の正常な細胞まで侵されてしまう。
その段階になれば、手術を強行するしかない。

現時点において、大聖人の精神を正しく継承している仏教組織は学会のみ。

その学会組織に巣食う「師子身中の虫」。
それを排除する働きをする人の得る因果について、皆さんは考えたことがあるだろうか。

組織の悪を排除して会員の信心を守る。
それは、自身の悪を排除するのみならず、一家眷属の信心を強めることにも通じている。

やがて、本人に莫大な功徳をもたらす原因になるだろう。

「師子身中の虫」退治。
それは利他行為であると同時に、自分を益する行為でもある。

そんな視点で「仏法研鑽塾」を読んでいただきたいものだ。

このブログは最高幹部「猿吉」の悪を告発するだけで終わる、そんな内容の浅いものではない。

皆に成仏する機会を与えたいと、日夜、御祈念している人が、あたかも偶然のように引き起こした必然的なひとつの問題。

高い境涯から見ると、学会の組織利用問題の本質は、より深いところにある。

皆を成仏に導くための訓練。
問題に真正面から取り組ませて、幾多の壁を乗り越えさせる。
そして勝利させる。

皆を仏の境涯に到達させる試験問題のようなもの。

良い結果を出して合格した人は成仏できる。

ここに学会組織利用問題が発生した真の意義があるのではないだろうか。

組織利用問題だけではない。

現在、学会とその周辺部が抱えている問題。
一見、矛盾しているとも受け取られかねない教義の解釈、等々。

問題は多ければ多いほど、より多くの人が成仏チャンスを得ることができる。

時代は乱世。社会の放つ「三毒」も桁はずれに多い。
鎌倉時代の門下生より現在の会員のほうが、むしろ、成仏チャンスに恵まれている状況ではないだろうか。

その事に言及されない理由すら明らかにしないのは、慈悲深さゆえのことだろう。

学会に関係している問題すべてが、それを解決する人にとっての成仏チャンスであり、宇宙の法則に則って必然的に作成された仏界への入学試験なのだ。

ここに慈悲深い人の真意がある。

気づいた人は運が良い。
「仏法研鑽塾」は、その真意を説き明かす。
このブログに巡り合えた人には福運がつくだろう。

莫大な功徳を得るチャンスが、今、目の前に広がっているのだ。

三大宗教(パートⅡから)

世界的に広く普及している宗教があります。
キリスト教、イスラム教、そして仏教です。

これらは信仰人口の多さから世界の三大宗教と呼ばれています。

その他にも、規模の小さいものなどを含めると相当な数の宗教が存在していることでしょう。

その教義も複雑です。

例えば、他宗教とは全く違う考え方から出発している宗教があります。
にもかかわらず、他の宗教と同じような教えを内部に持っている。

あるいは、もともと同じ宗教だったにもかかわらず、後世に現われた指導者によって教義の解釈がまったく異なってしまった宗派など、宗教は実に複雑です。

その違いをひとつひとつ取り上げて論じるつもりはありません。

すべての宗教の教義が科学的に証明された事柄でない以上、どの宗教の教義が正しく、どの宗派の教義が誤っているかなど、現時点では誰にも判定できないからです。

違いを比べてその正邪を論議しても有益ではありません。

その代わり、世界三大宗教に共通している点を探っていきたいと思います。

地球人類にとって特定の宗教を信仰する意義はどこにあるでしょうか。

それは幸福になることです。

この点においては信仰する宗教の違いなど問題になりません。

信仰することで幸福になる。

それ以外に宗教の存在する意義や目的はないでしょう。

逆に言うと、信仰する人が幸福になるのであれば、宗教の種類は問わないということです。

創造主である神がこの世を支配して人の運命を決めていると説く宗教があります。

仮に、その教えの一部が誤りだったとしても、信仰する人に感謝や慈悲、謙虚な気持ちを起こさせる作用があり、周囲の人にも良い影響を与えるのであれば、その教えは人間教育のためのひとつの方便として立派に通用するのではないでしょうか。

他宗教の人は寛容の精神を発揮して双方に有益な理解の仕方をすればよいわけです。

とは言っても、一部の原理主義者のように殺人を正当化するようでは時代を逆行してしまいます。

宗教に無知な信者さんを隷属化して金儲けをする悪徳宗教家も、不幸を作り出してしまいます。

愚かしい事に、そんな現実も一部に見受けられますが、大多数の潜在的な信仰者は世界平和実現を望み、その実現に力を尽くす人でしょう。

神との契約を生涯果たしたら天国に行けると説く宗教もあります。

その契約を履行しながら自身が日々幸福を感じている、そして戦争には絶対反対の考えを持つ人であれば、その宗教を信じるのも大いに結構だと思うのです。

地球人類の文化程度はお世辞にも高いとはいえません。
それは一般的な宗教においても同様です。

人間はその文化程度に応じた宗教しか持てないのです。

まだ地球人類は真の人類と呼べる段階まで進化していない過程にあるのでしょう。

潜在能力が十分に開発されていないために、生命の本質を観測できる技術を持つ段階に到達していない。

生命科学はまだ始まったばかり。

百年前と比べれば確かに科学技術は目覚しい進歩を遂げましたが、生命の分野においてはいまだ暗黒時代です。

一部には、生命の本質についてある程度知覚している人もいるようですが、現実的な宗教教義の統一理論化など数万年先の話かもしれません。

とりあえず私たちは着実に前進していく他に方法はないようです。

世界三大宗教が現時点でやるべき事。

それはお互いの違いを正しく認識したうえで、共通項である世界平和実現に向けて一致団結した行動を示す。

この一点に尽きるのではないでしょうか。

2009年11月6日。

アラビア半島(パートⅡから)

アラビア半島で誕生したイスラム教。

その創始者であるムハンマドは、地域の信頼も厚く、人々からお金を預かる銀行のような仕事をしていたそうです。

ある日、彼は啓示を受けて、人々に生活の教えを説くようになりました。
それがムハンマドの宗教の始まりとされています。

仏教はインドから中国、朝鮮半島を経由して日本に伝えられました。

仏教を取り入れたのは聖徳太子。

ムハンマドは聖徳太子とほぼ同時代を生きた人です。

地理的には、アラビア半島の方が日本よりもインドに近い位置にある。
にもかかわらず、仏教はアラビア半島方面には伝わりませんでした。

釈迦の予言したとおりで不思議です。

ムハンマドは、アラーの神の意思に忠実な生活を心がけることで個人と社会の幸福が実現されると説きました。

その教えをまとめた経典がコーラン。

不正を否定し社会の公正化をはかる。
弱者を救済する助け合い精神を持つこと。

さらに、自分の欲望をコントロールすることで幸福は実現されるなど、仏教に通じる良い思想も多く含まれています。

大多数のイスラム教信者さんは平和を愛する善良な人々です。
生活の糧が得られたことを神に感謝し、自らの心を律する修行を続けています。

同時に「目には目を、鼻には鼻を、歯には歯を」という有名な思想を併せ持っている。

この思想に基づいて、一部の原理主義者は大国の横暴に対する暴力的な報復を正当化しています。
 
ひとつの聖地を巡る異なる宗教間の小競り合いや民族間の利権争いもあり、結果的に、アラブ地域では暴力の連鎖が止まりません。

「仲間が外部の者に弾圧された時、我々が神の意思に忠実な行動を取ることができるのか。神が我々の信仰心を試しているのだ」
などと解釈して暴力を正当化している人もいるようです。

創始者のムハンマド自身も、中継貿易の利権を独占していた支配者や一部商人たちを批判、自ら戦争を指揮してメッカにイスラム共同体を建設しました。

いつの時代においても、歴史の真実はその現場で生活している人々の中にあります。

従って、特定の立場の人の利益を優先するためのバイアスがかけられた報道や情報を鵜呑みにすることはできません。

しかし、生命の因果律を信じている人ならば、横暴を働いた国や個人の未来は決して幸福なものにはならないと認識するはずです。

受け取る人の立場や社会状況によって解釈が真っ二つに分かれる「目には目を、歯には歯を」という思想。

見方によっては、生命の因果律による実証が現れる時間を意図的に短縮している教えに受け取れてしまう気がすることもあります。

それはさておき、この思想は「受けた恩は恩で返す」という意味も持っています。

これが正しい解釈でしょう。

基本的に、イスラム教徒は「報恩感謝」の思想を持つ善良な人々と思います。

もっとも、イスラム教徒だけにかぎりません。
相手の人権や立場を正しく理解して、お互いに尊敬しながら友好関係を築いていく。

相手が何かで困っていれば積極的に援助する。
こちらに幾ばくかの余裕があれば相手の衣食住を安定させるための支援をしていく。

そんな相手思いの思想と行動が世界平和を実現する第一歩なのです。

2009年12月18日。

水のような信心とインフルエンザ(パートⅡから)

新型インフルエンザが流行しはじめています。
その予防対策も各メディアで取り上げられています。

今回は、仏法者として留意しておかなくてはならない重要な点があると思いますので、少々、書かせていただきます。

一般的に、信心強盛な方たちは、題目を毎日長時間唱える傾向にあると思います。

学会においても「題目を唱え抜いた人が勝つ」と指導しているので、一般会員はそのとおりに実践しているようです。

なかには病気の治癒を目的として、毎日十時間も題目を唱え続ける人もいます。

その努力や気迫には全く頭の下がる思いがします。

しかし同時に疑問に感じる箇所も浮上してきます。

御本人は、毎日、長時間の題目を唱え続けることにより、学会の指導通りに「題目を唱え抜いている」と信じ込んでいる。

少々勘違いしている部分があるのではないかという事です。

「題目を唱え抜く」のは正しい信仰者としての精神のあり方です。
これは間違いありません。

しかし、その意味するところは「毎日、長時間の題目を唱え続ける」そんな日課をライフスタイルにすることなのでしょうか。
 
その人が信仰している条件の如何によっては、正しいと言えるでしょう。

しかし、それ以外の条件を持つ人においては、必ずしも正しいとは言い切れない部分があるのではないかと思います。

長時間、題目を唱えて声を出し続ければ、それ分だけ喉に負担がかかります。
酷使すればするほど、喉の部位に疲労物質が蓄積します。

その疲労物質が毛細血管を圧迫して血流を阻害します。
血流が滞れば、その部位の免疫機能が低下してしまいます。

そんな状態でウィルスが進入すれば、たちまち発病してしまいます。

仏法にかぎりません。
スポーツその他のどんなに優れたトレーニング法にも長所と短所があるものです。

熱心に題目を唱えてしまうあまり、喉を酷使して、一時的にせよ免疫機能を低下させてしまうという問題。

実は、ここに大聖人の仏法の最大の欠点のひとつがあるのです。

周囲の人を見回してください。
季節の変わり目などに、かならず喉風邪を引いている人がいるはずです。

仕事などから来るストレスもあるでしょうが、普段から喉を酷使していることによる免疫力低下に最大の原因があると自覚している人が何人おられるでしょうか。


今回のインフルエンザは進化した遺伝子を持つウイルスです。

「御書」に反して、学会員から先に発病していたのでは笑い話です。
現代のウイルスは鎌倉時代よりも数段に進化しています。
大気汚染も深刻。

ですので、会合でも空気清浄機を賢明に利用するなどして事前対策をとっておく必要があるのではないでしょうか。

その人が信心強盛である事と「毎日、長時間の題目を唱える」事とは、必ずしも一致しているとはかぎりません。

仏法修行として大事な事は、顕在意識に高い境涯が出ている時間を一秒でも長く保つことでしょう。

題目を唱える習慣を持たない人でも、生命の基本境涯が高い人はいるものです。
そんな人は本人の自覚あるなしにかかわらず、仏法とは違う方法で仏道修行しているのです。

顕在意識に高い境涯が出ている時間を出来るだけ長く保つように心がける信仰のあり方を「水のような信心」と呼ぶのだと思います。

これからの時期は、喉を酷使し過ぎて免疫機能を低下させない努力も必要になってくるでしょう。

2009年8月21日。